2011年3月11日から8年。あの時自分には何ができただろうか、今何ができるだろうか。この日が来るたびに自分に問いかけています。
あの日。僕は初めての選挙に向けて、5 年半務めた博報堂を辞め、活動していました。ちょうど、選挙に出るための供託金を納めるために法務局に行き、建物から出てきた瞬間、地震に遭いました。向かいの九段会館では天井の一部が落ち、2人の方が亡くなり、20人以上の方が重軽傷を負いました。
僕が代表を務めるNPO法人グリーンバードの「仙台チーム」の仲間も、被災してしまいました。「こんなことしている場合じゃない、仲間を助けに行かなければ」と、選挙など投げ捨てて被災地入りしようとした時、一緒に活動してくれていた仲間に夜な夜な説得されたことは、今でも覚えています。
選挙後、すぐに仙台に入り、現地を調査し、足りていないところに物資や人を送る活動をはじめました。落ち着いた後は、活動の場所をいわきに移しました。その後は熊本、岡山など各地の被災地へもバスツアーを催行し、大勢の方々にボランティアに参加していただきました。現地ではたくさんの方々にお世話になりました。
日本財団の「被災者支援拠点運営人材育成事業」の委員にもなり、震災発生時に助かった命が避難所生活の中で失われてしまう「震災関連死」をなくすための活動にも取り組みました。その知見を生かすため、港区内の小学校で避難所運営訓練なども開催させていただきました。政策集には、「快適に暮らせる避難所を」「100%再生エネルギー都市へ」「防災のために繋がるマンション」などの項目も入れました。http://ecotoshi.jp/vision
8年経った今も、5.2万人の方がまだ避難を続けています。また、内閣府が行った調査では、防災対策に「取り組んでいる」と回答した人は4割以下にとどまっています。自分はあの時、本当はどうするべきだったのか、今、本当は何をするべきなのか。
Yahoo!の新しい防災プロジェクト「Yahoo!防災ダイバーシティプロジェクト」を、選挙を手伝ってくれていた当時の学生が企画したと聞きました。少しだけ、救われたような気がしました。https://bosaidiversity.yahoo.co.jp/
答えはありませんが、とにかく今は、小さな「できること」を続けていこうと思います。
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