「弱いリーダーシップ」が社会を変える?


ソーシャル&エコ・マガジン、月刊『ソトコト』で「まちのプロデューサー論」の連載を開始させていただいてから、3年が経ちました。この間、これから「自分の住む地域をもっと盛り上げていきたい!」と考える人たちのヒントとなるべく、各地のまちづくりの先駆者たちに、そのコツを聞くことを繰り返してきました。

一般に言う「プロデューサー」とは、いろいろな関係者を巻き込みながら、一緒に企画をつくるのが仕事です。たとえば、秋元康はAKB48の、小林武史は僕の好きなMr.Childrenの「プロデューサー」でしたが、彼らはまず世の中に必要とされている音楽、これから流行りそうなエンターテイメントとは何かを考えます。そして、つくったコンセプトをもとにアーティストを招集し、楽曲をつくり、協力してくれるクリエイターやイベント会社などに制作を依頼し、さらにメディアに呼びかけて一つのムーブメントをつくっていくのです。

これに対して、「まちのプロデューサー」はまず、理想のまちの姿を描きます。そして、それを実現するために必要なステップを考えます。あとは、町会や自治会など古くからまちで活動している人たち、商店街の人たち、新しくまちに住むようになった人たち、企業やNPOなどの人たち、自治体の職員などに呼びかけて、いろいろな人の協力を求めながら、一緒にプロジェクトなりイベントなりをつくり出していくのです。

「まちのプロデューサー」に必要な三つのステップ

もし、あなたが「まちのプロデューサー」になろうと思ったら、次に挙げる三つのステップが重要です。

まずは、まちの課題を洗い出したうえで、自分が住みやすい、理想のまちの姿を描いてみること。大事なのは、自分の足でまちを歩いたり、さまざまなデータを調べたりしてマーケティングを徹底することです。次に、描いたまちの理想の姿を自分の仲間、また、そのまちに関わるさまざまな人に話し、反応を確かめてみること。それが独りよがりのものではなく、まちに住む多くの人の共感を得られるものでなければなりません。最後に、それを実現するための施策やイベントなどを考え、そのプロジェクトに協力してくれる多くの仲間を募ることです。

ポイントは、最初からあまり欲張らないこと。僕も、博報堂が赤坂に移転して、「何かまちのためにできることはないか」と考えていた頃、「チェーン店ばかりになってしまった商店街に赤坂らしさを取り戻すにはどうすればいいのか」、「もともとあった歴史や文化をどうしたら今の時代に合った形で復活できるのか」、あるいは「都会のなかにも自然を感じるまちなみをつくる方法は何か」などを考えては、そのための具体的なアイディアを仲間とともにいろいろと練っていました。

しかし、一社員でいる限り、それに取り組むにはかけられる時間も労力もとても足りませんでした。そこで最初の一歩としてはじめたのが、まちのごみ拾いだったのです。活動を続けていくうちに、多くのまちの人に受け入れてもらい、その後、山車をひかせていただいたり、地域の様々なイベントなどに参加させていただいたり、商店街の盛り上げプランを提案させていただいたりするようになりました。それがきっかけの一つとなり、僕自身は会社を辞めてNPOの代表に、そして港区議会議員にもなってしまいました。

弱いリーダーシップの必要性

ただ、最近の僕自身の仕事を表すと、「プロデューサー」というより「ファシリテーター」という方が近いのかもしれないと感じるようになりました。

「プロデュースする」という作業は、自分で発想したものに対してみんなを巻き込んでいくことだと思うのですが、そうするとプロジェクトの質は、すべてプロデューサーの力にかかってきてしまいます。でも実際、まちには「得意」をもった面白い人がたくさんいて、その人たちに発想から何から任せてしまったほうがうまくいく場合が多いです。

一方、「ファシリテーター」は、たとえば会議の場では、会議の参加者が本当は何を求めていて何を実現したいのか、また、それぞれの強みは何かを理解することに集中します。大きな方向付けをするというよりも、参加者が意見を出しやすい雰囲気をつくったり、参加者同士の協力が生まれやすい仕掛けを用意したりすることを意識しているのです。

まちに住み、暮らす人たちにはそれぞれにまちに対する思いがあって、よくよく聞いてみると、まちを良くするアイディアをたくさんもっていたります。僕の役割は、それらを傾聴すること、そして、同じ思いを持った人同士をつなげて化学反応を起こすことにあるような気がしています。キーワードは「一人の専門家より、1万人の考える素人の知恵を活かして行うまちづくり」です。

今の政治では、一般に強いリーダーシップのある人の登場を待つ傾向が強いように思います。しかし、僕たちがこれまで経験してきたように、たとえそんな人が現れたとしても、その人に任せきりにしてしまうと、自分たちが欲しい社会と少しずつズレが生じてくる場合が多いと思います。国政での話題を誤解を恐れずに言うと、たとえば、原発や集団的自衛権などは、必ずしも多くの人からの賛同を得ていないのに施策がどんどん進んでいるという印象を、多くの人がもっていると思います。

プロデュースされるのを待つのではなくて、一人ひとりがまちのためにできること、すなわち自分とその家族、そしてその周りをよくするにはどうすればいいかという発想を持つようになるのがベスト。そういう雰囲気をつくるにはどうすればいいのか、と日々悩んでいます。

一つ、ファシリテーターの話法のなかで好きな言葉があります。それは、「解決ではなくて、解消」というものです。解決というのは課題があったときに、それを誰かの力で「変えていく」行為ですが、解消というのは課題に関係する人たちが話し合って、そもそも自分たちで何とかできるものだったのだと思い直し、課題自体が「消えていく」状態のことです。そういう発想で取り組めば、みんなの力で社会を良くしていくことが可能なのではないかと思っています。

僕の本音は、「政治家が要らない世の中を目指す」ことです。政治家がプロデュース、もしくはファシリテートしなくても、みんなが自分の役割を意識して動いて行く社会。政治家の大きな役割の一つが「声なき声」を束にして行政に届けることなのだとしたら、「声なき声」があちこちで主張するまでもなく、みんながお互いを助け合っていけばいいのです。(政治家というよりは、みんなの意見をまとめ、あるいはクリエイティブな発想をし、決断・実行する人は必要だとは思いますが。)

世の中のことを、ただ嘆いているだけじゃもったいない!ちょっと周りをよくすることを考え、「社会を変える」に関わって、「手ごたえ」を手に入れませんか。身近なまちで、小さなことから。それができるのは、もしかしたら「弱いリーダー」なのかもしれません。

僕が最近発表した、「港区を良くする20の新アイディア」も、ぜひご覧下さい!

「弱いリーダーシップ」が社会を変える? への2件のコメント

  1. 長谷川雅春 より:

    ごもっともです。
    それに加えて、Follow the money を提言します。
    まちが良くなる、ということは換言すれば、カネが回っている、収入が増える(微々たるものでも)
    ということだと思います。
    我々は文明社会に生きて居ます、無人島、孤島ではありません。
    赤字経営では頓挫してしまいます。
    愚生のやってるボランティアも、究極は現生業の収入を上げるため、
    現実はこれ以上もう減らないように、との思いからです。
    それには、職場である地域の活性化しかありません。

    脱線しますが、株価を上げても世間の景気は良く成りません。(現状がその証拠)
    金持ちがどんどん貧乏人から搾取(ちょっとアレな表現ですが)して、
    終には貧乏人が絶えてしまったら、彼らもゆっくりと破滅です。
    だから故ウォーレン・バフェットは綺麗ごとで、リッチマンからもっと税金を取れ、
    と言ったのではなく、社会は循環してこそ互いに成長できるからです。
    脳味噌ばかりに血液を送っても足腰の血流を絶ってしまっては、
    何の楽しみが得られるのでしょうか。

    世の中は少ない富裕層と大半な貧乏人、少ない賢人と大多数な愚か者で構成されています。
    100%の達成は、誰にもできませんが、トライ為さってください。

    脱線失礼しました。
    今月が4年後にも繋がります様に。

  2. 長谷川雅春 より:

    間違えました。

    バフェット氏は故人ではありません。
    申し訳無し。

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